例・益田の書いた読書感想文
例として、ぼくの書いた読書感想文をのせておきます。
自分が書くときの参考にしたり、パクってもらったぜんぜんかまいません。
- 「電池が切れるまで」
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「もう死んでやる」
つらいときや落ち込んでいるときに、こんな言葉を言ってしまったことがある。でもこの本を読んで、軽い気持ちで死ぬなんて言ってはいけないのだと思った。
『電池が切れるまで』は長期入院している子供たちが、小さな体で精一杯病気と戦いながら、院内学級に通って勉強する子供たちが書いた詩を集めた詩集である。長い間病気に苦しめられている子供たちが、命と正面から向き合って書いた詩だ。
「命がないと人間は生きられない
でも『命なんかいらない。』
と言って
命をむだにする人もいる
まだたくさん命がつかえるのに
そんな人を見ると悲しくなる
命は休むことなく働いているのに
だから 私は命が疲れたと言うまで
せいいっぱい生き続けよう」
小学四年生の宮越由貴奈さんの書いた詩の一部だ。
世の中には自殺してしまう人たちがたくさんいる。十一歳で死んでしまった宮越さんからしたら、せっかく与えられた命をそんな形で投げ出してしまうのはとてももったいないことだろう。自殺なんてするのはいけないことだと、私も思う。
しかし、よく考えてみると私も自殺してしまう人と同じようなものだ。「死んでやる」などという言葉を軽々しく言うことは、命をかけて病気と戦っている人にとって失礼なことだ。つまらないけんかのときに「死んじゃえ」などという言葉を言ってしまうのも、とても恥ずかしいことだと思う。私たちは健康で、いつも自分が死ぬなんて考えもしないで暮らしている。「死んでやる」「死んじゃえ」どちらも、『電池が切れるまで』にある言葉の前ではとても恥ずかしくて口にできない言葉だ。
小学五年生の田村由香さんは、手術のことを詩に書いている。
「でもいやだ
だれだっていたいのはいやだ
でもやらなくちゃ
もっといたい
がんばろう」
病気の子供たちは、自分よりもはるかに真剣に生きているのだと思った。痛くてたまらない手術を、「でもやらなくちゃ」と言える強い気持ちを持っている。「もっといたい」けど「がんばろう」と思えるのだ。私だったら、痛いことや嫌なことはなるべく後回しにしたり、やらないようにしたりして、楽なことをしようとしてしまうだろう。でも、手術は痛くても、それをしなければ病気に負けてしまう。だから、つらくてもがんばろうと思えるのだろう。
自分には今のところ大変な病気もないし、命をかけて戦わなければならないような状況もない。しかし、これはもっと小さなことでも、同じなのだと思う。目の前にあるつらいことや困難なことに、逃げずに立ち向かっていく強い気持ちを持つことが大事なのだと、私は教えられた気がした。
せっかく与えられた命なのだから、生んでくれた両親のためにも、命を無駄にすることなく、自分が健康で自由にやりたいことのできることを幸せだと思って、毎日をもっと精一杯生きなければならないと思った。
- 「救出―日本・トルコ友情のドラマ」
- トルコという国について、私は何も知らなかった。
トルコの歴史も、有名な場所も、人物も、何も知らない。首都はアンカラ、それしか知らない。
日本はアジアにあって、隣には中国、韓国などがある。また、ニュースで見るのはアメリカやイギリス、北朝鮮などの国のことだ。
テレビでも、新聞でも、トルコのことを伝えるニュースはあまり見たことがない。あるのかも知れないけれど、私はまったく覚えていない。自分とは、そして日本とは関係の薄い国だと思っていた。
だから私は、「救出―日本・トルコ友情のドラマ」という本を読んで、驚いてしまった。
明治二十三年、いまから百年以上も前にあった出来事のことが書いてあった。
私の祖父は、八十歳である。私の祖父も生まれていないような昔の話だ。
トルコの軍艦エルトゥールル号が紀伊半島沖で難破した。台風につっこんで、船は真っ二つに裂け、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。六百人以上の乗組員が海に放り出され、波にさらわれた。岩にぶつかり、意識を失い、岩場にのりあげた。
エルトゥールル号の乗組員は、遠くに見える灯台の灯りを見て、あそこに行けば人がいるかも知れないと弱った体で灯台を目指した。灯台守はこの、どこの国の人ともわからない遭難者を見て、助けなければならないと思った。そして灯台から近い樫野の村人たちが、それに協力した。
ほとんど冷たくなりかけているトルコの人たちを、「まだ息があるぞ」と自分の体温で温めて、「死ぬな」「元気を出せ」「生きるんだ」と、励まし続けた。
言葉はわからなくても、心は伝わったのだと思う。乗組員の大多数は死んでしまったけれども、樫野の人たちが救助した六十九人のトルコ人は命を救われた。
しかし、樫野村は電気もガスも水道も、井戸すらない村だ。貧しい暮らしを送る樫野の人たちは、自分たちの食料を提供してトルコの人たちを看病したけれど、ついにはわずかなサツマイモしかなくなってしまった。そして樫野の人たちは、自分たちのニワトリをトルコの人たちに与えた。
大事な大事なニワトリだ。それがなくなったら、自分たちは困ることは目に見えている。
しかし、「だいじょうぶ、おてんとうさまがまもってくださるよ」といって、貴重なニワトリをつぶして、トルコの人たちに元気をあげた。
いい話だ、と思った。
自分の大事なものをなくしてでも、誰かのために尽くすなんてできることではない。いい話だなあと思ったのだった。
百年以上も前の、遠い昔に、そんな話があったのか、と。
しかし、私はこの本を読み進むにつれ、もっとびっくりしてしまった。
1985年、この事件から九十五年後のこと。イラン・イラク戦争のときに、イラクのサダム・フセインが「「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と宣言した。
そのとき、イラクには三百人近くの日本人がいたが、彼らは日本に帰る方法がない。脱出することができなければ、イラクの爆撃の中で生命の危機を感じながら暮らさなければならなくなる。 日本の政府も外務省も自衛隊も、彼らを助けてあげることはできなかった。時間がない。自分で歩いて、イラクから逃げてくるしかないというのだ。それは、到底無理なことだった。
そこに、トルコ航空の飛行機が到着した。
日本人全員を乗せて、成田空港まで出発した。
なぜトルコの飛行機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも誰もわからなかった。
あとから、トルコの大使が、「エルトゥールル号の事故のときに、日本の人たちがしてくれた救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史の教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえエルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、イラクで困っている日本人を助けようと、トルコの航空機が飛んだのです」 と語ったという。
この本のあとがきでは、エルトゥールル号以来の日本とトルコの友好の歴史や、エルトゥールル号事件のときに日本の新聞社などが義援金を集めてトルコの遺族に送ったことや、第二次大戦後に日本が国連に加盟するときにトルコが協力してくれたこと、エルトゥールル号の母港だったメルシン市と串本町など、日本とトルコの多くの都市が姉妹都市になっていることなどが書かれていた。
私は、遠い昔のことだと思って読んでいたが、トルコの人にとっては今もなお自分の身近にあることだという。
今から百年前の出来事を、しっかり覚えていて、当たり前のように日本人のために危険な行動をとって救助してくれたトルコという国は、いったいどんな国なのだろうかと思った。
先日あったサッカーのアジアカップで、日本選手に対して中国の人はブーイングを送り続けたと言う。
私の知っている日本は、以前の戦争でひどいことをして、中国からも韓国からもせめられている国という印象があった。しかし、そんな日本を友達のように思ってくれている国があると知り、誇らしくなった。
また、自分たちの暮らしをかえりみずに見知らぬトルコ人を助けた樫野の人たちを、立派だと思った。
「情けは人のためならず」という言葉がある。人にかけた情けは、いつか巡り巡って自分に返ってくる、という言葉だ。しかし、百年も前のことを覚えていて、そのために行動をしたトルコの人たちのことを思うと、信じられないという気持ちになり、そして胸が熱くなる。本当に、美しくて純粋人たちだと思う。
トルコの人たちは、「日本の人たちがしたことを忘れていない」という。百年前にした日本人の行動が、現代にもトルコの人たちの中で生きているという。
私はトルコについて知らないことが多いが、日本についても、たくさんのことを知らないのかも知れない。。
私は、日本に生まれた者として、トルコの人に感謝するとともに、その信頼にこたえなければならないと思った。
トルコの人たちが日本人に感じた、自分のことは後回しにするおもいやり。
トルコの人たちが見せてくれた、誰かのために危険をおかす勇気、恩を受けたらそれを返すやさしさ。
みんな、自分のことは大事だけれど、それ以上に大事なことというものは、やっぱりあるのだ。
そんなことを教えられた気がして、また、今の自分を見て「想像していた日本人とちがう」などと言われないか、不安になった。
困った人がいたら、助ける。人に助けられたら、感謝する。そんな当たり前のことが、自分は出来ているだろうかと思った。
この本に書いてあるのは、現代ではきれいごとになってしまうようなことだ。なんだか現実ばなれしているような、きれいごとだ。
しかし、私はそんなきれいごとを、それを信じていたいと思う。
この本を読んで、百年前の日本の人たちと、十年前のトルコの人たちに教えられたことがたくさんある。
自分たちの暮らしをなげうってトルコの人たちを助けた日本人や、その恩を覚えていて日本人のために危険な救助活動をしたトルコ人に、胸を張って、彼らと同じように、人を思い、人のために自分を投げ出せるようでありたい。
それで困ることもあるかも知れないけれど、「おてんとうさまがまもってくださるよ」と思えば、きっと大丈夫だ。
彼らに恥ずかしくないような、そんな自分でありたいと思った。
- 「博士の愛した数式」
- 「博士の愛した数式」は80分しか記憶を維持できぬ数学者と、ある母子の交流の話だ。この物語を読んで博士が語る数の世界に耳を傾けるうちに、数というものがこの世界の秩序にかかわっており、それは世界の美しさにつながっているのだと思った。
この物語の主要な登場人物は3人。
まず「わたし」。「わたし」は母子家庭に育ち、現在も子と二人で暮らしている。職業は家政婦。紹介所からの斡旋で瀬戸内海に面した小さな町の「博士」のもとで働き出す。
その息子「ルート」。つまり「√」。本名ではなく、彼の平らな頭頂部を撫でながら博士がつけた名前が最後まで使われる。
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そしてこの作品の主人公である「博士」。初老の元数学学者。ケンブリッジにも学び、前途洋々たる未来を約束された明晰な頭脳の持ち主であったが、交通事故により脳に重い障害を残す。それは1975年で記憶が止まり、それ以降のことがらは80分しか記憶が残らないというもの。
互いに心を開き、思い出を積み重ね(博士は80分ごとに更新してしまうのだが)、生きていく三人。途中語られる数学のエピソードはすばらしく、読んでいて飽きなかった。
<物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目には見えないのだ。
数学はその姿を解明し、表現することができる。なにものもそれを邪魔できない>
たとえば博士は「完全数」について説く。自分以外の全ての約数の和がそれ自身に等しい数である完全数について、博士は「完全の意味を真に体現する数字」だとのべ、100億以下に存在するたった5つの完全数をあげ、数が大きくなるほど見つけるのは困難であることや、過剰数と不足数など、この数字をめぐる特徴を話す。
この博士の言葉を聞いて、実は世界には人間が知らない秩序があり、まだ人間が知らない調和や美しさが隠されている、と思えてきた。無味乾燥な数字も、説明を聞いた後は表情を持ち始める。博士の話を聞いた「わたし」も、「博士の説明を聞いたあとでは、それらは最早ただの数字ではなかった。人知れず18は過剰な荷物の重みに耐え、14は欠落した空白の前に、無言でたたずんでいた」と思うのだ。
最もそれを私が感じたのは、この主人公と同様に、素数の説明を聞いたときだ。
私は中学で素数を習ったとき妙な感じがした。方程式を解くのにも図形の面積にも関係のないこんな数字をなぜ習うのか不思議な気持ちがした。しかし、素数は不思議とその意味を考えてしまう数字なのだ。そのときはその妙な気持ちの正体がはっきりとはわからなかったが、その私のぼんやりとした気持ちは、主人公の次の言葉ではっきりした。
「私が推察するに、素数の魅力は、それがどういう秩序で出現するか、説明できないところにあるのではないかと思われた。……この悩ましい気紛れさ加減が、完璧な美人を追い求める博士を、虜にしてしまっているのだ」
私たちが日常使う数字は整数、あとはせいぜい小数と分数くらいだ。その間にどんな関係があり、いかなる秩序が潜んでいるのか、などとは考えもしない。ところが、たとえ28という何の変哲もない数字でさえ、それは完全数として、世界の秩序の中にハッキリとした位置を占めており、しかもそれは100億以内にたった5つしかない貴重なものなのだ。
それは、私たちがいかに世界のことを何も知らず、何も気づかずにいるかということの証拠だ。何も気づかない私たちの意識とは別に世界そのものはいかに豊かで美しく広がっているのか、ということの証拠なのだ。私たちが世界に気づかないだけなのだ。
それは数だけの話ではない。
世界はすべて、そのようにできているのだ。
博士は、主人公にこう語る。
「自分が生まれるずっと以前から、誰にも気づかれずにそこに存在している定理を、掘り起こすんだ。神の手帳にだけ記されている真理を、一行ずつ、書き写してゆくようなものだ。その手帳がどこにあって、いつ開かれているのか、誰にも分からない」
主人公が、博士の記憶をまさに「掘り起こす」ように探っていた時、その奥には美しい恋の物語が秘められていた。また、最初は近寄り難くみえた博士も、主人公の息子との交流の中で別人のような側面を見せる。
それは、「発明」された美しさやあたたかさではない。すでに世界に存在していて、私たちはそれを見つけたに過ぎないのだ。ぼんやりと見ていれば気づかない世界の美しさは、分け入ってみて初めて見えてくる。そして、私たちに素晴らしいことを教えてくれる。